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2008-08-17
桑田佳祐
桑田佳祐
桑田 佳祐(くわた けいすけ、1956年2月26日 - )は、神奈川県茅ヶ崎市出身の日本のロックミュージシャン、シンガーソングライター。
父親が茅ヶ崎で映画館を経営していたため、幼少時より映画を大量に見た。
また、TVで見た「シャボン玉ホリデー」(日本テレビ)の「都会的な笑いのセンスが、自身の曲づくりの原点になっているという。
姉の岩本えり子はいくつかサザン、桑田ソロの曲で英語補作詞として参加している。桑田によると、作詞に行き詰ったときに電話で相談し、参考にしているとのこと。
桑田が音楽に興味を持ったのは、姉・えり子の影響が大きい。学生時代は姉が集めていたビートルズ等のレコードを聴き入っていたという(当時レコードは高価なものであったが、家にはビートルズのレコードがすべてあったという)。高校3年でエレキ・ギターを買ってもらい、本格的に音楽に目覚めた。
石黒ケイは親戚で近所に住んでいた。
中学生から高校生にかけ、今は無きパシフィックホテル茅ヶ崎のボウリング場でジュニアボウラーとして鳴らしていた。アベレージは200以上あったらしく、クイズ番組「カルトQ」でも問題として出題された、アマチュアのボウリング大会に出た時の公式記録は297(10フレーム目の3投目だけは7本倒し、それまでの11投は全てストライク)との事。昭和40年代、大ブームだったプロボウラーを目指してもいたという。当時ジュニアボウラーはあまり多くなく、パシフィックボウル茅ヶ崎で一緒にしのぎを削っていたのが、同い年で友人の文化放送アナウンサー扇一平である。中・高校時代の友人達は、後にワイドショーのインタビューに応じ「昔は桑田は歌手じゃなくてプロボウラーになりたがっていた」と語っていた。
高校は地元の神奈川県立茅ヶ崎高等学校に行く予定だったが、不合格。滑り止めで受験した鎌倉学園高等学校に通うことに。在学中は英語のみ成績が良く、ほとんど受験勉強をしなかったにもかかわらず、明治学院大学と青山学院大学に合格し、青山学院を選択する。ちなみに大学は一度留年した後に、学費滞納により4年在学したのち1978年に除籍になったとのこと(サザンのメンバーで青学に在学していた桑田・大森・関口・原のうち、卒業できたのは関口と原の2人だけである)。
青学時代は20代であるにも関わらず、合宿先などでステテコ・ももひき・サングラスといういでたちであったために、サークル仲間に30代だと言われていた。最も初期に付けられていたバンド名「温泉あんまももひきバンド」は、この時の桑田の風貌から来ている。
同じく青学時代、桑田と関口が所属していた音楽サークル「BETTER DAYS」に原が参加し桑田と知り合う。当初桑田は原の友達の女の子が目当てで原に近づいていたため、原のことは容姿を嘆いたり散々な軽口を叩いていたが、エリック・クラプトンなどの洋楽の好みで気が付けば意気投合、デビューまでの間に完全に付き合っており、サザンのメンバーやサークル仲間の間でも公認的であったという。詳細は原の著書『娘心にブルースを』で語られている。
デビュー当時はコミックバンド扱いされていたこともあり、桑田も本意では無いものの芸人的な立ち振る舞いで、特に長門裕之に顔が似ていることを売りにしていた。また、三遊亭圓生、稲川淳二、大橋巨泉などの物真似も披露しており、現在でも度々ネタにしている。
生まれも育ちも湘南であり、楽曲でも湘南のイメージが強いものの、桑田自身は湘南という呼称に否定的であり、映画『稲村ジェーン』に出てくる「地元の人間は湘南なんて誰も言わない」というセリフは桑田自身の言葉でもある。サーフィンも、中学生時代に友人の板を借りて数回やったことがある程度で、その時はまったく立てなかったという。青学時代は「バンドマンとサーファーは敵対関係」と考えていた。デビューしてからも長い間サーフィンには目もくれず、泉谷しげるに丘サーファーなどとネタにされることもあったが、1993年、37歳にしてサーフィンを始め、現在も続けている。
デビュー当時サザンは、本人達にとっては強制的な形で『8時だョ!全員集合』『元祖どっきりカメラ』などのバラエティ番組にも度々出演し、コントやモノマネなどの芸をしていた。ちょうどその頃、ザ・ドリフターズのリーダーいかりや長介が、ドリフ脱退を希望していた高木ブーに代わる新しい人材を探してところで、TBSプロデューサー居作昌果を通して、桑田にドリフ加入を打診していたという。桑田はいかりやとは会うだけ会ったが、具体的なやり取りについては明かされていない。
サザンオールスターズは、テレビの歌番組における歌詞の字幕スーパー(テロップ)が流される端緒を作ったとされる。これは桑田の早口の歌い方に視聴者が「歌詞が判らない」と苦情を寄せたため、テレビ局が桑田の歌い方に対応するために歌番組でのテロップ表示を行ったとのことである。
笑福亭鶴光のもとを破門になった元落語家、笑福亭笑光こと鳥飼達夫は1981年12月、桑田のソロ名義のライブ「嘉門雄三&Victor Wheels」のライブに前座として出演。翌1982年にはビクターの営業マンとしてビクター社員達と共に「チャコの海岸物語」の宣伝活動に回りながら、サザンのライブの打ち上げにも毎回顔を出し、次第に桑田に気に入られる。そして鳥飼は「『嘉門』の姓を譲ってほしい」と桑田に頼み了解を得て、嘉門達夫と名乗るようになる。その後も現在に至るまで、桑田は嘉門の替え歌を容認し続けるなどの仲である。
振り付け師南流石の芸名の名付け親である。南は流石組を率いて、サザンの1988年のライブ「大復活祭」や、原の1991年のソロライブ「花咲く旅路」にも振付師・ダンサーとして出演し、原がライブでダンスを披露する際にも振り付けを担当した。
オカマのことを「男と女のハーフだからニューハーフだね」と、大阪のあるラジオ番組で「ベティーのマヨネーズ」のママに名付け、『ニューハーフ』という言葉を世間に広めた。しかし本人は自分が広めた訳ではないと否定している。
独特の歌唱法は、日本人からは高校時代より大ファンだった前川清からきており、また洋楽ではボブ・ディランの影響が特に強く、学生時代は声質をより近付けるため、ウォッカで喉をうがいし、自宅の部屋にこもって枕に顔を押し付けて大声を出し続ける等などの荒行も行っていたという。その結果、1982年頃までの楽曲にしゃがれ声が際立っている作品が多い。しかし、声帯への悪影響も強く、声が出なくなって出血することもあったらしい。その後は声帯を酷使する極端な歌唱を控えるようになり、しゃがれ声が際立った曲は一部に留まっている。作品の発表時期によって歌声が異なって聴こえるのはこの為である。
ニッポン放送の「イマジンスタジオ」完成記念ライヴで、オノ・ヨーコのサインの下に自分のサインと「クソババー」と書いたが、あとで消されたという。
プライベートでは良きマイホームパパとしても知られており、ラジオ番組では度々「息子とサーフィンをした」「ギターを教えた」などの話題を話している。特に2000年春、次男の小学校の卒業式に行った際、教室で卒業生の前で当時ヒット中の『TSUNAMI』を生ギターで唄い、この時の様子が雑誌「FRIDAY」に写真入りで掲載された。桑田が唄っている最中、原は教室の後方から桑田の姿をビデオカメラで撮影していたという。
同じアミューズの後輩である福山雅治のことを「マサジ」と呼んでいる。福山に対しては、ラジオや、共演したライブの際に極端にイジり倒す場面も見られるが、実際にはプライベートでも一緒に飲みに行ったりビリヤードをやったりする等の仲である。桜坂を「あんないい曲、マサジに作れるわけがない」との発言は、逆に福山の才能を讃えての言葉とも言える。
ちなみに福山は、桑田の家でパーティーを行ったときにとてつもなく酔ってしまい、飾ってある皿を投げたりなどしたため、桑田の家には立ち入り禁止らしい(泉谷しげる談)。
2008年、サザンがデビュー30周年を迎えるのにあたって、サザンのギタリストとして福山に参加するよう冗談ながら発言。しかしながら、親交が厚いこの2組のコラボが実現する可能性もあるのではないかと予測されている。
かつてはヘビースモーカー(銘柄はハイライト)だったが、1999年10月23日から禁煙を開始[1]。以来、口元が寂しくなるとチュッパチャプスを舐めるとラジオで語った。また、お酒は普段は朝まで飲むのだが、コンサートツアー中は一滴も飲まない。また、目覚めがいいため、ここ10年は目覚まし時計を使ったことが無いとのこと。
ゆずがまだ無名の頃に、ラジオ出演していた桑田に対して「桑田さんと路上ライブをやってみたい」といった趣旨の手紙を送ったところ、桑田は本当にゆずの路上ライブに出向き、桑田佳祐&ゆずという夢のセッションをしたことがある。
サザンの大ファンとして知られる平井堅は、学生時代は「NO-NAME(サザンのシングル『EMANON』の逆さ読み)」というコピーバンドを組んでおり、また、桑田の自宅の門の上に「コーラスでいいので雇ってください」とメッセージを添えたデモテープを置いて行ったという過去を持つ(ミュージックステーション出演時に発言)。このテープに関し桑田は「つめが折ってなかったから、EXILE録っちゃった」と冗談交じりに発言している。2003年の「FNS27時間テレビ〜みんなのうた」内の『桑田佳祐の音楽寅さん 〜MUSIC TIGER〜サザンオールスターズスペシャル』では、桑田・原と共にサザンの『栞のテーマ』をハモり、夢の共演を果たした。さらに、2ndシングル『片方ずつのイヤフォン』の歌詞には“Southern All Stars”が登場し、アルバム『Ken's Bar』ではKUWATA BANDの『ONE DAY』をカバーしている。
度々髪型を変えたり髭を伸ばすこともあり、CDのジャケット毎にイメージが異なる。特に桑田が四十路を迎え、アルバム『Young Love』リリースの1996年頃はそれまでになかった程、髪をロングヘア・茶髪にしてメディアに登場していた。本人は気に入っていたのだがファンからはおおむね不評で、抗議のファンレターまで届いたほどだという。翌年には元の短髪に戻していた。1999年秋 - 冬頃にはパーマもあてていたが、その期間も短く、1999年末の年越しライブ「晴れ着DEポン」の時にはすぐに戻していた。このパーマに失敗したらしく、『TSUNAMI』の大ヒットで特にメディア出演が多かったことゆえ、この時の髪型にはかなり後悔していた。
ラジオなどで度々、クラプトンやレイ・チャールズをリスペクトする発言が目立つものの、本人に会ったことは一度も無いという(会えるチャンスは何度もあったとのこと)。これは「心底惚れたミュージシャンの普段の姿は見たくない」というファン心理からであるという。
ウィキペディア
桑田 佳祐(くわた けいすけ、1956年2月26日 - )は、神奈川県茅ヶ崎市出身の日本のロックミュージシャン、シンガーソングライター。
父親が茅ヶ崎で映画館を経営していたため、幼少時より映画を大量に見た。
また、TVで見た「シャボン玉ホリデー」(日本テレビ)の「都会的な笑いのセンスが、自身の曲づくりの原点になっているという。
姉の岩本えり子はいくつかサザン、桑田ソロの曲で英語補作詞として参加している。桑田によると、作詞に行き詰ったときに電話で相談し、参考にしているとのこと。
桑田が音楽に興味を持ったのは、姉・えり子の影響が大きい。学生時代は姉が集めていたビートルズ等のレコードを聴き入っていたという(当時レコードは高価なものであったが、家にはビートルズのレコードがすべてあったという)。高校3年でエレキ・ギターを買ってもらい、本格的に音楽に目覚めた。
石黒ケイは親戚で近所に住んでいた。
中学生から高校生にかけ、今は無きパシフィックホテル茅ヶ崎のボウリング場でジュニアボウラーとして鳴らしていた。アベレージは200以上あったらしく、クイズ番組「カルトQ」でも問題として出題された、アマチュアのボウリング大会に出た時の公式記録は297(10フレーム目の3投目だけは7本倒し、それまでの11投は全てストライク)との事。昭和40年代、大ブームだったプロボウラーを目指してもいたという。当時ジュニアボウラーはあまり多くなく、パシフィックボウル茅ヶ崎で一緒にしのぎを削っていたのが、同い年で友人の文化放送アナウンサー扇一平である。中・高校時代の友人達は、後にワイドショーのインタビューに応じ「昔は桑田は歌手じゃなくてプロボウラーになりたがっていた」と語っていた。
高校は地元の神奈川県立茅ヶ崎高等学校に行く予定だったが、不合格。滑り止めで受験した鎌倉学園高等学校に通うことに。在学中は英語のみ成績が良く、ほとんど受験勉強をしなかったにもかかわらず、明治学院大学と青山学院大学に合格し、青山学院を選択する。ちなみに大学は一度留年した後に、学費滞納により4年在学したのち1978年に除籍になったとのこと(サザンのメンバーで青学に在学していた桑田・大森・関口・原のうち、卒業できたのは関口と原の2人だけである)。
青学時代は20代であるにも関わらず、合宿先などでステテコ・ももひき・サングラスといういでたちであったために、サークル仲間に30代だと言われていた。最も初期に付けられていたバンド名「温泉あんまももひきバンド」は、この時の桑田の風貌から来ている。
同じく青学時代、桑田と関口が所属していた音楽サークル「BETTER DAYS」に原が参加し桑田と知り合う。当初桑田は原の友達の女の子が目当てで原に近づいていたため、原のことは容姿を嘆いたり散々な軽口を叩いていたが、エリック・クラプトンなどの洋楽の好みで気が付けば意気投合、デビューまでの間に完全に付き合っており、サザンのメンバーやサークル仲間の間でも公認的であったという。詳細は原の著書『娘心にブルースを』で語られている。
デビュー当時はコミックバンド扱いされていたこともあり、桑田も本意では無いものの芸人的な立ち振る舞いで、特に長門裕之に顔が似ていることを売りにしていた。また、三遊亭圓生、稲川淳二、大橋巨泉などの物真似も披露しており、現在でも度々ネタにしている。
生まれも育ちも湘南であり、楽曲でも湘南のイメージが強いものの、桑田自身は湘南という呼称に否定的であり、映画『稲村ジェーン』に出てくる「地元の人間は湘南なんて誰も言わない」というセリフは桑田自身の言葉でもある。サーフィンも、中学生時代に友人の板を借りて数回やったことがある程度で、その時はまったく立てなかったという。青学時代は「バンドマンとサーファーは敵対関係」と考えていた。デビューしてからも長い間サーフィンには目もくれず、泉谷しげるに丘サーファーなどとネタにされることもあったが、1993年、37歳にしてサーフィンを始め、現在も続けている。
デビュー当時サザンは、本人達にとっては強制的な形で『8時だョ!全員集合』『元祖どっきりカメラ』などのバラエティ番組にも度々出演し、コントやモノマネなどの芸をしていた。ちょうどその頃、ザ・ドリフターズのリーダーいかりや長介が、ドリフ脱退を希望していた高木ブーに代わる新しい人材を探してところで、TBSプロデューサー居作昌果を通して、桑田にドリフ加入を打診していたという。桑田はいかりやとは会うだけ会ったが、具体的なやり取りについては明かされていない。
サザンオールスターズは、テレビの歌番組における歌詞の字幕スーパー(テロップ)が流される端緒を作ったとされる。これは桑田の早口の歌い方に視聴者が「歌詞が判らない」と苦情を寄せたため、テレビ局が桑田の歌い方に対応するために歌番組でのテロップ表示を行ったとのことである。
笑福亭鶴光のもとを破門になった元落語家、笑福亭笑光こと鳥飼達夫は1981年12月、桑田のソロ名義のライブ「嘉門雄三&Victor Wheels」のライブに前座として出演。翌1982年にはビクターの営業マンとしてビクター社員達と共に「チャコの海岸物語」の宣伝活動に回りながら、サザンのライブの打ち上げにも毎回顔を出し、次第に桑田に気に入られる。そして鳥飼は「『嘉門』の姓を譲ってほしい」と桑田に頼み了解を得て、嘉門達夫と名乗るようになる。その後も現在に至るまで、桑田は嘉門の替え歌を容認し続けるなどの仲である。
振り付け師南流石の芸名の名付け親である。南は流石組を率いて、サザンの1988年のライブ「大復活祭」や、原の1991年のソロライブ「花咲く旅路」にも振付師・ダンサーとして出演し、原がライブでダンスを披露する際にも振り付けを担当した。
オカマのことを「男と女のハーフだからニューハーフだね」と、大阪のあるラジオ番組で「ベティーのマヨネーズ」のママに名付け、『ニューハーフ』という言葉を世間に広めた。しかし本人は自分が広めた訳ではないと否定している。
独特の歌唱法は、日本人からは高校時代より大ファンだった前川清からきており、また洋楽ではボブ・ディランの影響が特に強く、学生時代は声質をより近付けるため、ウォッカで喉をうがいし、自宅の部屋にこもって枕に顔を押し付けて大声を出し続ける等などの荒行も行っていたという。その結果、1982年頃までの楽曲にしゃがれ声が際立っている作品が多い。しかし、声帯への悪影響も強く、声が出なくなって出血することもあったらしい。その後は声帯を酷使する極端な歌唱を控えるようになり、しゃがれ声が際立った曲は一部に留まっている。作品の発表時期によって歌声が異なって聴こえるのはこの為である。
ニッポン放送の「イマジンスタジオ」完成記念ライヴで、オノ・ヨーコのサインの下に自分のサインと「クソババー」と書いたが、あとで消されたという。
プライベートでは良きマイホームパパとしても知られており、ラジオ番組では度々「息子とサーフィンをした」「ギターを教えた」などの話題を話している。特に2000年春、次男の小学校の卒業式に行った際、教室で卒業生の前で当時ヒット中の『TSUNAMI』を生ギターで唄い、この時の様子が雑誌「FRIDAY」に写真入りで掲載された。桑田が唄っている最中、原は教室の後方から桑田の姿をビデオカメラで撮影していたという。
同じアミューズの後輩である福山雅治のことを「マサジ」と呼んでいる。福山に対しては、ラジオや、共演したライブの際に極端にイジり倒す場面も見られるが、実際にはプライベートでも一緒に飲みに行ったりビリヤードをやったりする等の仲である。桜坂を「あんないい曲、マサジに作れるわけがない」との発言は、逆に福山の才能を讃えての言葉とも言える。
ちなみに福山は、桑田の家でパーティーを行ったときにとてつもなく酔ってしまい、飾ってある皿を投げたりなどしたため、桑田の家には立ち入り禁止らしい(泉谷しげる談)。
2008年、サザンがデビュー30周年を迎えるのにあたって、サザンのギタリストとして福山に参加するよう冗談ながら発言。しかしながら、親交が厚いこの2組のコラボが実現する可能性もあるのではないかと予測されている。
かつてはヘビースモーカー(銘柄はハイライト)だったが、1999年10月23日から禁煙を開始[1]。以来、口元が寂しくなるとチュッパチャプスを舐めるとラジオで語った。また、お酒は普段は朝まで飲むのだが、コンサートツアー中は一滴も飲まない。また、目覚めがいいため、ここ10年は目覚まし時計を使ったことが無いとのこと。
ゆずがまだ無名の頃に、ラジオ出演していた桑田に対して「桑田さんと路上ライブをやってみたい」といった趣旨の手紙を送ったところ、桑田は本当にゆずの路上ライブに出向き、桑田佳祐&ゆずという夢のセッションをしたことがある。
サザンの大ファンとして知られる平井堅は、学生時代は「NO-NAME(サザンのシングル『EMANON』の逆さ読み)」というコピーバンドを組んでおり、また、桑田の自宅の門の上に「コーラスでいいので雇ってください」とメッセージを添えたデモテープを置いて行ったという過去を持つ(ミュージックステーション出演時に発言)。このテープに関し桑田は「つめが折ってなかったから、EXILE録っちゃった」と冗談交じりに発言している。2003年の「FNS27時間テレビ〜みんなのうた」内の『桑田佳祐の音楽寅さん 〜MUSIC TIGER〜サザンオールスターズスペシャル』では、桑田・原と共にサザンの『栞のテーマ』をハモり、夢の共演を果たした。さらに、2ndシングル『片方ずつのイヤフォン』の歌詞には“Southern All Stars”が登場し、アルバム『Ken's Bar』ではKUWATA BANDの『ONE DAY』をカバーしている。
度々髪型を変えたり髭を伸ばすこともあり、CDのジャケット毎にイメージが異なる。特に桑田が四十路を迎え、アルバム『Young Love』リリースの1996年頃はそれまでになかった程、髪をロングヘア・茶髪にしてメディアに登場していた。本人は気に入っていたのだがファンからはおおむね不評で、抗議のファンレターまで届いたほどだという。翌年には元の短髪に戻していた。1999年秋 - 冬頃にはパーマもあてていたが、その期間も短く、1999年末の年越しライブ「晴れ着DEポン」の時にはすぐに戻していた。このパーマに失敗したらしく、『TSUNAMI』の大ヒットで特にメディア出演が多かったことゆえ、この時の髪型にはかなり後悔していた。
ラジオなどで度々、クラプトンやレイ・チャールズをリスペクトする発言が目立つものの、本人に会ったことは一度も無いという(会えるチャンスは何度もあったとのこと)。これは「心底惚れたミュージシャンの普段の姿は見たくない」というファン心理からであるという。
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